華岳山大光寺の歴史

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rekisi1華岳山大光寺は、その遠祖は源氏の武将で一の谷の合戦に於て平敦盛を討ち、勇名を馳せた後、佛門に帰依して出家した熊谷直実と口伝されておりますが、事実の上では文保年間、西暦1,300年頃には、菊池郡西迫間村に、天台宗の寺院として伝道活動を行っておりました。

現在西迫間の大光寺跡地には「小字」が存しています。

この菊池に存在した大光寺は、南北朝の時代、天皇親政による建武の親政を樹立された後醍醐天皇にゆかりの深い、南朝の忠臣菊池武時、菊池武光公ら菊池一族の本城(現在の菊池神社)と、指呼の間の小高い丘に位置しており、

「大光寺跡」の石碑が現存して、代々西迫間地区の大光寺御門徒によって護持供養されております。

佛教信仰の篤かった菊池一族の菩提樹として南北朝の戦火の中で焼失し、菊池一族と運命を共にしたものと考察されてます。

その後一時期、菊池市の野間口に坂本堂が建立されておりましたが、御宇田氏全盛時代に同氏の帰依を受けて、上御宇田村に再建されました。

現在、「大光寺跡」の碑が本堂跡に現存しており、薬師堂が安置されています。

この御宇田時代を経て、坂東に移転しましたが、その期間は100年余りで、天正十一年(西暦1583年)には、釈祐教に依って現在地に開山され、今日に至っています。

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88天台宗の寺院として、菊池一族の深い信仰を得ていた西迫間時代から、菊池市野間口、鹿本町御宇田、鹿本町坂東と移転した大光寺の文献は、ほとんど焼失していますが、現存する過去帳等の古文書の中に、その事実を散見出来ます。
また、西迫間、御宇田に建立されている「大光寺跡」の石碑は、なによりの実証といえます。
歴代の住職は、西本願寺の宗政に従事した学僧、政僧が多く輩出しています。

殊に第十一世の寛寧、及び十四世了護は、昭和五十一年十一月二〇日に地元鹿本町が発刊した「鹿本町史」の中の「人物」紹介の項では次のようになっています。

内田寛寧(寛政 九年(一七九七)一月一一日生)
(明治 一二年(一八七九)二月十三日生)

英照皇太后が編集された「明治考節録」という本の中に、土屋宗造の善行徳の話が書いてある。
この宗造は、一人の母親に考養のまことをつくしながら、喜びの中に生きぬいて沢山の人々を善導した篤行の人として、その名が天聴に達した程の人であるが若い頃の宗造は大の悪党で悪名を天下にとどろかした男であった。

或る年の冬、宗造青年は自分の村のお寺お正忌にお賽銭盗人をたくらんで、寒夜本堂の床下にしのびこんで、ふるえながら説教の終わるのを待ったが長い長い説教を聞くともなく聞いているうちに、悪人こそ救われることを知り」、説教に日参して感化され、遂にあれ程の善人となったのであるが、この感化の主こそ当時天下第一の学徳兼備の名僧として知られた、来民大光寺の第十一世住職内田寛寧和上その人であった。

寛寧和上は本願寺派最高の学位である勧学職に任ぜられ、本願寺第二十一代の法王、明如上人の師として上人を養育した人であるがこの明如上人こそ、明治維新の際、死力をつくして皇室の守護に任じた方で、桂小太郎をはじめ維新の元勲となった人々は皆上人の加護のもとに維新の大業を成し遂げたことは明治維新の裏面史の詳しく伝えるところである。
そこで寛寧和上もこれ等の人々との新厚が厚く、特に大光寺の道遠師をして西郷隆盛との連絡に当らせた程であった。
殊に我がこのようにして育てた内田了護(大光寺十四世住職)清浦奎吾を政界に進出させる動機を与えたものであって了護は不幸四〇才で歿した為志を完うしなかったが、奎吾は後世に名を残す程に大成したのは寛寧和上の陰の力が大きかったのである。

晩年寛寧和上は来民に帰って寺内に学林を建てて青年学徒の養育にあたり、全国の秀才で和上の徳を慕って集るもの一五〇名を超える盛況をみて、来民の町を一躍教育地として天下に勇名にした。当時和上が使用した駕篭は今尚大光寺の本堂に保存されて、その学徳を物語っている。

「来民」の町名も明治八年寛寧和上によって命名されたものである。
寛寧は菊池郡戸崎村赤星の正林寺に生まれた。少壮の頃訪導閣明増の講解を聴いて深く同師を敬慕す。後に乗誓院性海の門に入って研鎖数年、遂に門下第一の人となる。
元治元年(一八六四)讃阿弥陀仏偈を、明治元年(一八六八)散善義を学林に副講、同三年(一八七〇)阿弥陀径を、同一〇年(一八七七)選擇集を学林に代講した。
本願寺派最高の勧学となったが、「その善く先哲の義を咀嚼して諄々然として陣説するに至っては他に比類を見ず」と評せられた。
明治一二年(一八七九)十二月十三日一週間に亘る最後の「お別れ説教」を終わると同時に念仏と共に八三年の生涯を終えた。

著書に「宗要開関、四巻」「現世利益和讃啓蒙録」「帖外和讃蒙録」など多数残した。
「寛寧日誌」は当時の貴重な文献として、今日に伝えられその蔵書の多いことは勧学寛寧の勉学のはげしさを物語っている。墓は京都西大谷の勧学谷と来民大光寺にある。

内田了譲(弘化 四年(一八四七)八月十五日生)
(明治十九年(一八八六)七月二十二日歿)

鹿本町来民出身、元首相清浦奎吾の実兄。号筈峯長ずるに及んで大光寺勧学、内田寛寧の養子となり第十四世を継ぐ。
漢籍を広瀬林外の門に学び、宗余乗を寛寧、善譲そのほかを本山の学林に承く。
(一八七四)本願寺得業を授けられ、九年(一八七六)少講義に補せらる。一五年(一八八二)大講義累進、一九年補教となる。
特に事務に長じ明治七年上洛して本山に出仕、検事に抜けてきさる。九年真宗教務院宮城県諸。十九年(一八八六)一月遂に執行(現在の本願寺宗務総長)に推挙されて一宗の庶務を総理するに至った。
学問に深く詩文に巧みであったが惜しくも四〇才能登に疾病した。

著書に「了譲詩集」他多くの著書がある。
つまりこの二僧は、文字道り西本願寺そのものを支え、運営した日本宗教界を代表する名僧であり、傑僧であった事実を知るのであります。地元「来民町」の町名も、この寛寧和上に依って付けられたものであり、その前身「山鹿郡新町」の「市」も大光寺の門前市として、山鹿・隈府をしのいで繁栄したことが伺えます。
この寛寧、了譲両和上の墓碑は本願寺当局が、その高徳を讃えて西大谷の廟所に奉説しています。
近くは十六世寧磨も、本願寺宗議会議員、福岡教務所長(福岡別院輪番)等の要職で宗政の高揚に活躍しています。他にも十二世若叡(助教)、十三世道遠(司教)、十六世寧磨(助教)と各々本願寺の高額僧位を賜って居り、本願寺派の寺院に於ても特筆される寺院であると言えます。

《十七世 釋 信也(釋 大円)》
龍谷大学在学中、西本願寺、龍谷大学を代表しビルマ(現 ミャンマー ラングーン)における『第3回世界仏教徒会議 1954年』に参加、それを機会に第1回ビルマ政府招待留学生としてビルマのダンマドータ大学へ留学し、修行。同大学講師も務めた。
それを母体とし、釈迦の国インドへ心を奪われ深く交流を持つ。
1981年3月 当時『インド日本ヒマラヤ文化協会』を立ち上げる。
後に『インド文化協会』と名前を改め、会長として25年間にわたりインドの政、学、宗教界の方々と亡くなる2011年7月まで深く交流を持ちインドへ貢献する。

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大光寺の過去帳は、天正十一年の現在地に於ける開山以来のものが立派に保管され現存しています。
昭和五〇年の庫裏火災でも、古文書類は一切焼失せず、

一 新町絵図
二 報告口上覚(一巻)
三 大光寺由緒書(一巻)
四 中村手永御蔵納手鑑一冊
五 中村手永稼?調書一冊

等の古文書は調指定の「文化財」として寺内に保存されています。
また、大光寺本堂裏に建立(昭和五〇年)されている世界平和パゴダ(高さ二七メートル)内には、第一七世住職が、西本願寺代表に選ばれ、ビルマ政府の招請留学僧として渡緬し、後にビルマ国ダンマドータ大学の講師となり、ビルマ政府から多額の寄進を受けて建立した、門司メカリ公園上の世界平和パゴダの先端の「佛舎利」(お釈迦さまの御遺骨)と同様、ビルマ政府から寄進された「佛舎利」が奉納されております。
この本堂裏の世界平和パゴダは、内部が門信徒の皆様のための「納骨堂」になっております。そして、同境内には、大光寺開山四百年慶賛大法要を記念して、第十七住職に依って、歴代住職、寺族を永代に御供養する「法筺印塔」が歴代住職名を記帳刻印して建立されています。

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天正十一年、現在地に於て浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院として、再建されてからの歴代住職の糸図は次項の通りです。

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